——地元を歩いていたら、“もしもの自分”が見えてきた
成人してから、ずっと県外で暮らしてきた。
もう30年近くになるけれど、
最近は地元に会社を立ち上げたこともあって、前よりちょくちょく帰るようになった。
今日は、そんな帰省の合間の一日だった。
ふと、地元を歩いてみた
べつに、特別な理由があったわけじゃない。ただ、朝の空気が気持ちよかったから、昔の通学路を歩いてみた。
あの頃より道幅が狭く感じるのは、自分が大人になったからか、
それとも、あの道がほんとうに少しずつ痩せていったのか。
変わったものもあるし、変わらないものもある。
記憶は薄れているけど、風景の中にときどき、懐かしさがポツポツと浮かぶ。
地元に帰ったときにしか見えない空の色、
なぜか変わってない看板、
逆に、もうなくなってしまったあの店。
そんな断片が、歩くたびにぽろぽろと出てきて、
足どりは自然と、昔の記憶と重なっていく。
小学校の通学路と、昔の友達の家と
「ここでよく石を蹴りながら歩いたなぁ」とか、
「あの曲がり角で転んで、膝すりむいたっけ」とか。
気づけば、記憶の中の自分と並んで歩いていた。
冬の放課後、白い息を出しながら、誰かと並んで歩いた帰り道も浮かんだ。
足もとには雪が積もっていて、キュッキュッと鳴る音だけが静かに響いていた。
手がかじかんで、寒さをまぎらわせるように、ランドセルの肩ひもに手をねじこんでたっけ。
曲がり角を過ぎると、家のストーブの匂いが風に乗ってきて、「もうすぐ帰れる」って思った。
*
そして、昔の友達の家の前を通ったとき、思い出がいっきに湧いてきた。
ファミコンのコントローラーを順番に握りながら笑いあった午後。
外に出れば、公園で野球、
虫網をかかえて走り回っていた、あの夏のにおい。
汗でシャツが背中に張りついて、でも気にせず遊んでた。
日が暮れるまで、何をするでもなく公園にいた気がする。
途中で、まだ、かろうじて残っていた駄菓子屋に寄って、
100円玉を握りしめて、どれにしようかって真剣に迷ってた。
店の奥から聞こえる小さな扇風機の音と、
冷えたジュースの瓶の並ぶガラスケースが、なんだかやけに印象に残ってる。
*
今、その友達の家に人の気配はないけれど、
そこにあった時間だけは、ちゃんと残ってる気がした。
地元を離れた自分と、残ってたらの“もしも”
地元を離れなかったら、どうなってたんだろう。
地元の会社に就職して、地元の誰かと結婚して、
近くに家を建てて、子どもとまたこの道を歩いていたかもしれない。
もっとスムーズな人生だったんじゃないか。
そんな気がしないでもない。
でも、たしかにあのとき、自分は“出た”んだ。
見たい景色が、あの頃の自分にはあった。
うまくいったことも、いかなかったことも、ぜんぶひっくるめて、
この30年を歩いてきたことだけは、まちがいなく事実だ。
もうひとつの人生と、すれ違ったような気がした
選ばなかった人生を想像するとき、
それはいつも、少しだけ自分にやさしくなれる瞬間かもしれない。
選ばなかった道を否定するんじゃなくて、
選んできた道も、じんわり肯定できるような。
今日、地元を歩いていて、ふと思った。
たぶん、“正解かどうか”なんて、誰にもわからない。
でも、“ちゃんと歩いてきた”という感触は、
この足のうらに、ちゃんと残ってる。
だから、これでよかったんだと思う。
たぶん、きっと。
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